剣 天田昭次収貞合作
(あまたあきつぐかねさだがっさく)
平成三年八月日
Ken:Amada Akitsugu Kanesada Gassaku
現代・新潟 人間国宝 自筆箱書き有り
刃長:23.4(七寸七分強) 反り:なし 元幅:2.07 元重ね:0.67 穴1
【コメント】
人間国宝天田昭次、実弟天田収貞による合作の守護剣、鎌倉期古剣の名作で、国宝としても名高い、『粟田口藤四郎吉光』を写した意欲作、両名による箱書きなど完璧に揃った、究極のお守り剣です。
天田昭次は昭和二年、新潟県北蒲原郡本多村(現新発田市本田)生まれ、九歳の時に、父天田貞吉と死別、昭和十五年には上京し、日本刀鍛錬伝習所で栗原彦三郎の門人となります。この時兄弟子には宮入昭平(行平)がいました。昭和三十年代に入ると頭角を現し、新作刀展では、毎年優秀賞を受賞しましたが、これからという三十三歳の頃大病を患い、復活まで八年掛かりました。鍛刀を再開するに当たって、新発田市月岡の温泉街の外れに、自宅兼鍛刀場、『豊月山(ほうげつさん)鍛刀場』を構えました。不撓不屈の精神で復活した昭次は、ここから快進撃が始まります。昭和四十七年には無鑑査、昭和五十二年、六十年、平成八年に、刀剣界の最高賞である『正宗賞』を三度受賞、同賞三度受賞は、隅谷正峯、大隅俊平に次いで三例目ですが、山城伝、相州伝、備前伝と、全て異なる作風で受賞したのは昭次のみです。平成九年には人間国宝となり、平成二十五年、八十五歳にて没。
収貞(かねさだ)は天田貞夫と言い、昭和八年生まれ、昭次の六歳下の実弟に当たります。前述した豊月山鍛刀場で兄と共に鍛刀しました。兄の協力者としての役割が多いため、自身作は僅少です。近年は高齢により鍛刀は行っておらず、昭次が没後は、鍛刀場から程近い、『天田昭次記念館』にて、鍛刀談義が聞けることもあるそうです。兄昭次の輝かしい栄光は、収貞の尽力があってこそ、成り立ったものです。
本作は平成三年、昭次六十四歳、収貞五十八歳の頃の作、大変貴重な兄弟合作の古剣写しです。剣の作例は平安期より見られますが、勿論実戦用ではなく、武士よりも僧侶に好まれため、御神体、仏像の持ち物、仏教的な魔除けの器としての意味合いが強く、政(まつりごと)のための特注品です。
本作は鎌倉期の古剣の中でも、名作中の名作として名高い、『粟田口藤四郎吉光』写しで、寸法、造り込み、出来、樋の位置まで、完璧に再現しています。昭次にとっては、『正宗賞』初受賞作が、山城伝直刃であったことからしても、剣を写すのであれば、国宝吉光に挑むことは必然であったと思われます。小板目肌が極めて良く詰んだ美しい地鉄は、細やかな流れ肌を交え、細美な地沸が微塵に厚く付き、張り詰めた糸のように美しい直刃は、刃縁に葉、小足を配し、刃中匂い深く見事です。これ程までに冴え渡る地刃は、同工が独自製法の自家製鉄を使用したことによる賜物と言えます。古名刀の再現のためには、その時代の鉄を作り出すしかないという結論に至った昭次は、以後全て自家製鉄素材にこだわった鍛刀を行ってきました。永年に渡る素材研究の結果辿り着いたのは、奥出雲産の最高級真砂(まさ)砂鉄を、低温製錬した素材を使用することでした。これを使用して、納得出来る鋼材が得られるようになったのが、昭和五十年代に入った頃と云い、三度の『正宗賞』受賞がこれ以降であることは、正にそれを裏付けています。
天田兄弟は、戦後の厳しい時代を乗り越え、互いに切磋琢磨し、兄は鉄の研究に没頭、ただひたすらに古名刀を追求し、弟はその協力者として、時に大病を患った兄の支えとなってきました。本作はそんな名工二人による渾身の合作剣、 桐箱表に『守護剣』、裏には『豊月山鍛刀場』と両名の連名に朱印があります。完璧に整った箱書きが付属して、これ以上のお守り剣はありません。もう二度と叶わない天田兄弟合作による、『粟田口藤四郎吉光写し』の最高傑作、次はないと思います。