刀 (金粉銘)元重
(もとしげ)
本阿(花押)(光遜)
(附)正徳三年本阿弥光忠(十三代)折紙
Katana:Motoshige
古刀・備前 南北朝中期
最上大業物
第三十六回重要刀剣指定品
刃長:71.0(二尺三寸四分強) 反り:1.6 元幅:3.27
先幅:2.61 元重ね:0.64 先重ね:0.55 穴3
【コメント】
最上大業物、『貞宗三哲』、長船元重の重要刀剣、同工典型作優品、最高権威本阿弥光忠折紙が附帯した名品です。
元重は、長船鍛冶でありながら、兼光や長義とは系統を異にする刀工で、畠田守家の孫、守重(長船長光の娘婿)の子、重真の兄と伝わっており、最上大業物且つ『貞宗三哲』にもその名を連ねる備前鍛冶の代表格です。
作刀期間は、鎌倉末期の正和(一三一二~一七年)頃より、南北朝中期の貞治(一三六二~六八年)頃まで及んでいます。故にその造り込みは時代を反映し、切っ先身幅尋常な姿から、切っ先延びた大柄な姿まで見られます。
作風は、板目に杢目交じりの鍛えに流れる様な柾気が交じり、総体的に肌立ち気味で地景入り、地斑状の肌合いや乱れ映りの出る場合もあります。
焼き刃は、直刃仕立てで、刃中角張る互の目が目立ち、互の目、丁子、片落ち風の刃、のこぎり状の刃を交えますが、刃は総体的に逆掛かるのを基本とします。また刃縁から刃中に向かって足、葉が鋭角に入る『陰の尖り刃』は、同工特有の働きです。直調で刃中逆掛かった焼き刃、突き上げ風で尖り心となる帽子などは、同時期の青江鍛冶に近いものがありますが、肌質の違い、刃幅が総体的に広いなどの相違点が挙げられます。
本作は大磨り上げ無銘ながら寸法二尺三寸四分強、フクラやや枯れ気味の大切っ先で、元先身幅の差が少ない豪壮な姿は、南北朝中期の延文貞治姿を示しています。
板目、杢目、流れ肌が大模様にうねるように肌立つ地鉄は、地色明るく、地沸が厚く付き、鎬寄りには映り立ち、所々断続的に地斑風となっています。
広直刃湾れ調の刃取りで、刃中角互の目、片落ち互の目を主体とした刃文は、刃縁匂い勝ちに小沸付き、刃は総体的に逆掛かり、刃中足、葉がふんだんに入り、柔らかな金筋、砂流し掛かり、前述の如く、所々『陰の尖り刃』も顕著に現れています。匂い口は潤むように明るく、帽子も乱れて込んで尖り風に突き上げて返るなど、地刃に元重の特徴が顕著に示されています。
本刀には、図譜にも記載があるように、正徳三年(一七一三年)、十三代本阿弥光忠による『元重』極めの折紙が附帯しており、『代金十五枚』の代付けがされています。
本阿弥光忠は、本阿弥本家十三代当主で、折紙は元禄九年(一六九六年)~享保十年(一七二五年)まで残されており、同年九月没。
本阿弥本家の折紙でも、特に十三代光忠までのものは、鑑定が厳格で信用が置けるため、『古折紙』又は『上折紙』と呼ばれ珍重されます。
その光忠が晩年の享保四年、八代将軍吉宗の命により編纂したのが、かの有名な『享保名物帳』です。
『享保名物帳』は、それまで本阿弥家で鑑定の上、押形を取っていた名物刀剣台帳、これをまとめた人物の折紙とくれば、無論最高権威です。
『代金十五枚』の代付けに付いては、江戸初期なら大判一枚(十両)が百万円として、一千五百万円ということになりますが、江戸中期頃は少し下がってきますので、大凡一千万ぐらいでしょうか。
茎表裏には、一部剥落していますが『元重 本阿(花押)』と本阿弥光遜の金粉銘極めもあります。 光遜は、大正~昭和前期の鑑定家、人間国宝研磨師小野光敬の師に当たり、『日本刀の掟と特徴』の著者としても有名です。
この寸法、迫力、典型的な出来に加えて、光忠折紙、光遜金粉銘まであるとなれば、もう言うことはありません。
長船元重の典型作優品、最上大業物、『貞宗三哲』の名に恥じない、南北朝中期の備前太刀です。