刀 固山備前介藤原宗次
六十二才鍛
(こやまびぜんのすけふじわらのむねつぐ)
文久四年二月吉日(一八六四年)
Katana:Koyama Bizennosuke Fujiwarano Munetsugu
新々刀・武蔵 江戸末期
第三十六回重要刀剣指定品
薫山先生鞘書き有り 『鑑刀日々抄』所載品
刃長:71.3(二尺三寸五分強) 反り:1.7 元幅:3.46
先幅:2.73 元重ね:0.82 先重ね:0.56 穴1
【コメント】
固山宗次の重要刀剣、正に豪壮無比、華やかな宗次丁子を焼いた同工最高傑作、実年齢を茎に刻した希少な銘振り、『鑑刀日々抄』所載品です。
宗次は固山宗兵衛と言い、享和三年、陸奥国白河(現福島県白河市)に生まれ、水心子正秀門下であった加藤綱英に鍛刀を学んだと伝わりますが、宗次の作風から考えると、濤瀾刃を得意とした綱秀より、その弟で丁子刃を得意とした長運斎綱俊の影響を強く受けていると考えられています。兄に宗平、宗俊がおり、一専斎、精良斎と号しました。初めは白河藩松平家の抱え工として活躍、文政六年、主家が伊勢桑名藩へ国替えされると、それに伴い桑名藩工となりましたが、大半は江戸麻布永坂、飯倉、四谷左門町にて鍛刀しています。弘化二年に『備前介』受領、正確な没年は不明ですが、作品は文政後半から明治四年頃まで残っています。
作風は一貫して備前伝、詰んだ地鉄に匂い勝ちで華やかな丁子刃の美しさは新々刀随一です。また大業物作者としても名高く、試し斬り名人、七代目山田浅右衛門吉利(山田五三郎)、尾張犬山藩士で試斬家でもあった伊賀兎毛(伊賀四郎左衛門乗重)らに、刃味利鈍の指導を受け、斬れる刀を探求しました。新々刀期に於いて最も成功した鍛冶の一人であるため、大名、著名人の注文打ちも多く残されています。
本作は文久四年、自ら茎にも切り付けているように、同工六十二歳の作、同工の場合、実年齢を刻した作は僅少で、重要指定品では本作を含め二口のみ、図譜にも『宗次が享和三年に生まれたことを実証するもので、宗次研究の一助となり、資料的にも貴重である。』と記載があります。
寸法二尺三寸五分強、切っ先力強く延び、元幅3.46㎝、先幅2.73㎝の豪壮無比な一振りで、実際手にすると、元先身幅がほとんど変わらないように見えます。同工の他の重要指定品を見ても、ここまで幅広の作は見当たらず、研ぎ減りなど微塵も感じさせない刀身は、現代刀のような健全さが保たれています。
小板目詰んだ地鉄は、地沸が微塵に厚く付き、細かな地景が良く働くなど、同行中最上の鍛えを示しており、大房の丁子乱れを主体に、拳形丁子、重花丁子を交えた焼き刃は、刃縁匂い勝ちで明るく締まり、刃中柔らかな丁子足が頻りに入るなど、ムラなく完璧に焼いています。
一見して分かることは鉄質の良さ、これは最高級出羽(いずわ)鋼に因るものと考えられます。宗次は、鎌倉期より大変良質な鉄が取れた石州出羽産の鋼を使用していたと云います。出羽の地は、現在の島根県邑智郡邑南町(おおちぐんおおなんちょう)出羽付近、南北朝期の石州直綱一派などが使用していたもので、新刀期以降は全国的に知られるようになり、日本刀玉鋼としては、兵庫県の千種鋼(ちぐさはがね)と並ぶ最高級銘柄です。
周知の通り、新々刀重要は狭き門、出来、健全さ、迫力等々、全てに於いて完璧である必要がありますが、本作に於いては、学芸員満場一致で重要に指定されたものと思います。万人が納得出来る新々刀重要、本間薫山先生の鞘書きと共に、『鑑刀日々抄』所載品、何処に出しても恥ずかしくない最高の固山宗次です。