刀 栗原筑前守信秀
(くりはらちくぜんのかみのぶひで)
慶応四年正月日(一八六八)
Katana:Kurihara Chikuzennokani Nobuhide
新々刀・武蔵 江戸末期
第三十一回重要刀剣指定品
『栗原信秀の研究』所載品
探山先生鞘書き有り
刃長:72.8(二尺四寸強) 反り:1.8 元幅:3.25
先幅:2.41 元重ね:0.76 先重ね:0.54 穴3(内2忍1埋)
【コメント】
源清麿高弟、栗原信秀の重要刀剣、豪壮な造り込み、覇気溢れる典型的な出来を示した同工代表作、『栗原信秀の研究』所載品です。
栗原信秀は、文化十二年、現在の新潟市南区月潟付近に生まれ、文政十二年に上洛して鏡師として活躍した後、嘉永三年に江戸へ出て二歳年上の清麿門に入りました。嘉永五年には独立、嘉永六年八月から七年に掛けて、黒船のペリー来航で沸いた相模国浦賀、元治元年八月から慶応三年正月までは大坂今宮でも鍛刀、それぞれ『浦賀打ち』、『大坂打ち』呼ばれます。
慶応元年、『筑前守』を受領、年紀作に見る活躍期は、嘉永五年五月から明治十年十一月まで、明治十三年、東京本郷元町宅にて六十六歳で没。
作風は、師同様に互の目乱れを主体とした覇気溢れるものが多く、その技量は清麿門下中卓抜したものがあり、師に迫る名品を数々生み出しています。
また彫りの名人としても有名、越前記内、本荘義胤などに範を取り、それを独自展開した斬新な作が多く見られ、月山貞一、本荘義胤と共に、幕末の『三大名人』と呼ばれます。
銘振りの変遷として、最初期は『信秀』二字銘、嘉永七年二月から文久二年八月までは、『栗原謙司信秀』銘、文久三年正月から元治二年二月までは、『平信秀』若しくは『信秀』銘となり、銘も大振りで、茎の長い作が多く見られます。『筑前守』を受領後、慶応元年四月から同四年六月までは、『筑前守信秀』銘が主で、『信秀』、『栗原信秀』、『栗原筑前守信秀』銘も併用、明治元年からは、『栗原筑前守平朝臣信秀』などと切る、『平朝臣』銘も加わります。
本作は『栗原信秀の研究』所載品で、その後昭和五十九年、第三十一回の重要刀剣に指定された逸品です。
慶応四年、同工五十四歳の頃の作、寸法二尺三寸四分弱、反りやや浅めに付き、切っ先はふくら枯れ気味に延びるなど、清麿一門らしい雄壮な一振りです。
詰んだ鍛えに所々板目が流れ心に上品に肌立つ地鉄は、地色明るく冴え、互の目乱れを主体とした刃文は、小互の目、小乱れ、尖り風の刃を交え、刃縁匂い勝ちに小沸の付いた明るい刃を焼いており、地には細かな飛び焼きも多数見られます。
銘振りに関して、図譜等にも記載があるように、この頃の銘は、やや鎬寄りに切り、第一目釘穴は、『原』の左上、若しくは『原』に掛かるように空けるのが通常ですが、本作は第一目釘穴の下、茎やや中央寄りに切っています。このような切り方は大変珍しいかと思います。
探山先生鞘書きに『姿剛健で、師伝を良く継承した沸厚き盛んな互の目乱れを焼き、角張る刃、尖り心の刃を交える点には同工の個性を示すなど、躍動感溢れる同作中屈指の優品也。』とあるように、源清麿高弟、栗原信秀円熟期に於ける代表作、且つ『栗原信秀の研究』所載品となれば言うことはありません。銘振りも含め、こういった希少品は、出た時が勝負、これは強くお薦め致します。