刀 来国俊
(らいくにとし)
Katana:Rai Kunitoshi
古刀・山城 鎌倉末期 最上作
若狭塗三鱗紋揃金具合口拵え付き
第三十八回重要刀剣指定品
探山先生鞘書き有り
『刀剣美術』所載品

刃長:23.6(七寸八分弱) 反り:僅かに内反り 元幅:2.33 元重ね:0.60 穴1

合口拵え(江戸後期 全長40.5 鞘 謹箔巻き茶漆変わり塗り 鯉口、栗型、瓦金、こじりは金無垢魚子地三つ鱗紋図の同作 小柄、笄 銘石黒政美作 赤銅魚子地金据紋、裏哺金、三つ鱗紋図 下げ緒金茶 柄 国防色細糸巻き 縁頭、金無垢魚子地、三つ鱗紋、こじり他に同図同作 目貫同図同作)付き。

【コメント】
来国俊の重要刀剣短刀、同派最高峰鍛冶の典型作、これぞ短刀の造形美の極み、鎌倉末葉の格調高き名品、『刀剣美術』所載品です。
来国俊は、国行の子として仁治二年(一二四一)に生まれ、同派中最初に『来』の字を冠した刀工で、以後皆がこれに倣いました。
古来より来国俊は、銘に『来』を冠しない『二字国俊』との関係に付いて、その作風等の違いから、同人説と別人説が論じられてきましたが、近年の重要図譜でも『両者の製作年紀を合わせると、弘安元年(一二七八年)から元亨元年(一三二一年)までの約四十年となり、一人の刀工による作刀期間と考えても決して無理な年数ではない。』としており、現在は二字国俊を前期、来国俊を後期とする同人説が有力視されています。
二字国俊時代の作を合わせると、国宝五口、重要文化財十八口、重要美術品三十七口を数えますが、これは勿論同派中最多であり、名実共に同派の最高峰と言えるでしょう。
作風は、二字国俊が国行を思わせる身幅しっかりとして、猪首切っ先の勇壮な姿に、京丁子の目立つ華やかな乱れ刃を焼くのに対して、来国俊は小切っ先で細身、若しくは中切っ先で尋常な姿に、直刃、直刃調に小模様の乱れを交えた温和な出来が多く見られます。
また国俊は、ほぼ同時代の粟田口国吉、藤四郎吉光、新藤五国光らと並び立つ短刀の名手としても名高く、数々の名作を残しています。
本作は平成四年、第三十八回の重要刀剣に指定された在銘短刀です。
寸法七寸八分弱、三つ棟の造り込み、僅かに内反り付き、重ねやや厚め、腰元に踏ん張りがあり、茎は振り袖形にやや湾曲するなど、どれを取っても、短刀の造形美の極みを見るかのような格調高き逸品です。
小板目肌が精緻に詰んだ地鉄は、地色明るく、裏の物打ち付近に特有の来肌現れ、地班状の沸映り強く現れ、細直刃調で、細かなほつれを交えた焼き刃は、刃縁沸匂い深く明るく冴え、刃中繊細な金筋が掛かっています。
表に素剣、裏に護摩箸の簡素な彫りがありますが、素剣は一際鏨が深く、帽子も直調で先小丸に返る富士形となるなど、見所満載です。
重要に指定された翌年、平成五年三月号の『刀剣美術』に鑑定刀として掲載されていることからも分かるように、同工典型作と言えるでしょう。
年紀はありませんが、探山先生鞘書きにもあるように、力強い鏨運び、『来』、『国』等の字体から、正応(一二八八~九三年)、永仁(一二九三~九九年)頃の作と鑑せられます。
特徴的なのは、前述のように差し裏物打ち付近の地に見られる来肌です。
『刀剣美術』にも記載があるように、来肌とは、総体的に精美に詰んだ地鉄の一部分に露呈する弱い肌のことで、一種の疲れ肌、弱い変わり鉄のようなものです。太刀にも短刀にもあり、短刀の場合、本作の如く、物打ち付近に出ることが多いとされます。
普通は欠点として捉えるものですが、備前三郎国宗の『白染み』、大和保昌の『柾割れ』などと同様、来派の手癖、見所とされています。
付属の時代外装は、若狭塗り三鱗紋揃い金具合口拵えで、図譜にも本短刀の付属品として明記されています。
金具には北条家の定紋としてお馴染みの三つ鱗紋が散りばめてあり、ハバキにも入っています。
来派筆頭鍛冶及び短刀名人としての実力を存分に示した逸品、格調高い大名持ちの特級品、この来国俊は見逃せません。







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