刀 (太刀銘)於東武土州藩左行秀造之
(とうぶにおいてどしゅうはんさのゆきひでこれをつくる)
慶応三年二月日(一八六七)
Katana:Toubu Dosyuhan Sano Yukihide
新々刀・土佐 江戸最末期
第三十五回重要刀剣指定品
『左行秀と固山宗次その一類』所載品
刃長:72.4(二尺三寸九分弱) 反り:1.2 元幅:3.22
先幅:2.56 元重ね:0.76 先重ね:0.62 穴1
【コメント】
左行秀の重要刀剣、同工円熟期に於ける代表作、『今正宗』、『土佐の長刀』と評されたその実力を遺憾なく示した優品、『左行秀と固山宗次その一類』所載品です。
行秀は、文化十年、伊藤又兵衛盛重の嫡子として、筑前国上座(じょうざ)郡朝倉星丸の里、現在の福岡県朝倉市杷木(はき)星丸に生まれました。筑前左文字三十九代目と称し、その旨を刻銘した作も多く見ます。豊永久兵衛と称し、東虎とも号しました。天保初年に出府し、細川正義門人の清水久義に鍛刀を学び、弘化三年、土佐藩工関田真平勝廣の勧めにより土佐へ下り、安政二年十月には土佐藩工となります。万延元年の終わりから文久二年の初め頃までの間に、再度江戸へ戻り、深川砂村の土佐藩邸にて鍛刀しましたが、慶応三年五月、板垣退助との不和が元で、同年夏に土佐へ帰っています。この後から、豊永東虎左行秀造之などと、東虎の号を添えた銘も見られるようになります。
年紀作に見る活躍期は、天保十一年から明治三年まで、晩年は嫡子幾馬と横浜で余生を過ごし、明治二十年、七十五歳で没。
作風は、初期は丁子乱れ風の作もありますが、土佐へ下った弘化三年以降は、広直刃調、湾れ調の刃取りに、刃中は互の目足入るもの、沸崩れるものなどが見られるようになり、それまでとは別人とも思えるような作風に変化、刃縁の沸匂いの深み、明るさは、同工ならではと言えます。こういった作風は、古くは江義弘、新刀では井上真改、長曽祢虎徹らが得意としたもので、同工もこれらに私淑したものと考えられます。
銘は最初『豊永行秀』、嘉永初め頃から『左行秀』、慶応末年頃からは『豊永東虎行秀』などと、『東虎』を添えた銘振りも見られます。
幕末期、勤皇の雄藩であった土佐藩、その藩主山内容堂が、行秀の刀を『今正宗』と絶賛したことから、土佐藩士や土佐出身の志士達からの注文打ちが増え、中には坂本龍馬の実兄、坂本権平の名も見ます。その雄壮な姿から『土佐の長刀』とも呼ばれ、京では土佐の志士らが、好んで差して闊歩したと伝えています。
本作は平成元年、第三十五回の重要刀剣に指定された傑作、慶応三年、同工五十五歳の頃の作、銘にも『於東武(江戸の異称)』とあるように、江戸深川砂村の土佐藩邸にて鍛刀した一振りです。前述したように、板垣退助との不和が元で、土佐へ帰る直前、同工大成期の代表作です。
寸法二尺三寸九分弱、大切っ先やや鋭角となり、反り浅め、身幅、重ねのガシッとした姿は、いわゆる幕末勤皇刀スタイル、身幅の割に鎬幅狭く、鎬の高い造り込みは同工の手癖であり、地刃すこぶる健全、手持ちズシンときます。
小板目に流れ肌を交えた精良な地鉄は、地色明るく、地沸微塵に厚く付き、細かな地景繁く入り、直湾れ調で、互の目心の刃を交えた焼き刃は、刃中互の目足、葉入り、ムラ沸付き、繊細な金筋、砂流しが掛かっています。刃縁の沸匂いの深み、明るさは素晴らしいものがあります。
この地刃の美しさ、冴を生み出しているのは、同工が使用していた南部餅鉄に他なりません。南部餅鉄とは、現在の岩手県釜石市周辺で産出された良質な鉄鉱石のことで、盛岡(南部)藩、伊達藩の奨励により刀の材料としても用いられ、同工作には『南部名産餅鉄以作之』などと茎に刻してあるものもあります。
平成二十七年七月、この鉄鉱石が採掘されていた橋野鉄鉱山遺跡は、『明治日本の産業革命遺産』として『世界遺産』に登録されました。
ハバキは金無垢二重、重厚感たっぷりでズシッときます。透かしは『丸に隅立て四つ目結(ゆい)紋』、京極氏、尼子氏などが使用した平四つ目結紋から派生した紋で、浅井長政に仕えた近江の寺村氏などが使用していました。同氏は後に分派して、それぞれ羽柴秀吉、山内一豊、蒲生氏郷などに仕えましたので、おそらくはその何れかの家系に伝来したものかもしれません。
本刀は、片岡銀作著『左行秀と固山宗次その一類』所載品で、解説には『行秀の技量を遺憾なく発揮した傑作也。』とあります。
片岡氏は、『日本刀随感』や『肥前刀思考』等の著者でもお馴染み、また『押形の銀作』の異色を持つ愛刀家であり、日刀保及び日本刀剣保存会評議員も務めた有名な鑑定家です。
これぞ左行秀という典型作優品、新々刀期に於いて、このスタイル、この出来は、同工の独壇場とも言える作域であり、改めて新々刀重要の健全さ、迫力を再確認出来る凄い一振りです。