刀 以南蛮鉄於武州江戸越前康継(初代)
(なんばんてつをもって
ぶしゅうえどにおいてえちぜんやすつぐ)
Katana:Nanbantetsu Busyu Edo Echizen Yasutsugu
新刀・武蔵 江戸初期
特別保存刀剣鑑定書付き
探山先生鞘書き有り
刃長:67.0(二尺二寸一分) 反り:1.2 元幅:3.10
先幅:2.41 元重ね:0.76 先重ね:0.55 穴1
【コメント】
初代越前康継『江戸打ち』の優品、勇壮な慶長新刀姿、将軍家御用鍛冶職を務めた名門の棟梁として、その技量を存分に示した会心作です。
康継一門は、徳川将軍家の抱え鍛冶であり、当時の刀鍛冶としては、最高の地位にあった名門です。三代目継承の際に、江戸と越前に別れ、両家とも幕末まで抱え鍛冶として御用を勤め上げました。
初代康継は、下坂市左衛門と言い、美濃赤坂千手院の末裔である下坂廣長の子として、近江国坂田郡下坂村で生まれました。父に鍛刀を学び、後に全国を巡る修行に出ました。始め『越前国下坂』と銘じ、文禄年間に『肥後大掾』を受領、『肥後大掾下坂』と銘しています。その後、慶長初年頃に、越前一乗谷北ノ庄に移住、慶長五年、『関ヶ原の戦い』の後に、徳川家康の次男、松平(結城)秀康が、越前北ノ庄藩(福井藩)初代藩主として越前に入ると、秀康に抱えられ、越前松平家の抱え鍛冶となりました。慶長十年頃、徳川家重臣、本多飛騨守成重の推挙により、家康、秀忠両将軍に召し出され、江戸に於いて鍛刀、その技術を認められた康継は、家康より『康』の字を賜り、『康継』と改め、茎に『葵紋』を切ることを許されました。以後将軍家御用鍛冶職として、原則、隔年で越前と江戸で鍛刀し、『江戸打ち』は『於武州江戸越前康継』、『越前打ち』は『越前国住康継』などと銘じ、現存品では、江戸打ちが圧倒的に多く見られます。元和七年没。
作風は、浅い湾れを交えた直刃調に、丁子風の刃、互の目、尖り風の刃を交えたものを基本とし、中には沸出来の大乱れ、大互の目乱れ、直湾れ、直刃ほつれ、皆焼きもあります。
新刀ながら、昨年(令和二年)までで重要文化財二振り、重要美術品十五振り、特別重要十三振りの指定品があり、写し物も得意で、相州正宗、貞宗、三条宗近、粟田口吉光などの写しが残されており、『獅子貞宗』、『梅竹貞宗』、『切刃貞宗』などの『貞宗写し』は特に有名です。
本作はその銘振りから『江戸打ち』の会心作、寸法二尺二寸一分、切っ先がグッと延びて反りやや浅め、元先身幅の差が少ない勇壮な慶長新刀姿を示しており、腰元に薙刀樋と添え樋、茎も生ぶで穴一つです。
板目肌良く詰み、地沸微塵に厚く付いて上品に肌立つ地鉄は、細かな地景繁く入り、湾れ乱れ調で、小互の目、小乱れを交えた焼き刃は、刃縁の沸匂い深くやや沈み勝ちとなり、刃中直足、葉が繁く入っています。
更に良い研ぎが掛かっていますので、地刃が明るく冴えており、地刃の美点が存分に示されています。
初代越前康継『江戸打ち』、将軍家御用鍛冶職の名に恥じぬ面目躍如たる一振り、 中々お目に掛からないレベルの康継、これは強くお薦め致します。