脇差し 信濃守国廣
(しなののかみくにひろ)
(所持銘)法橋兼與(ほっきょうけんよ)
Wakizashi:Shinanonokami Kunihiro
新刀・山城 江戸初期 最上作 拵え付き
第六十三回重要刀剣指定品
『国廣大鑑』所載品
本阿弥光遜鞘書き有り

刃長:30.6(一尺一分弱) 反り:0.3 元幅:3.22 元重ね:0.66 穴2


【コメント】
新刀最上作、堀川国広の重要刀剣、晩年の『堀川打ち』、表裏の見事な自信彫りに加えて、『国廣大鑑』所載の同工代表作です。
国廣は、享禄四年(一五三一)、日向国中西部に位置する古屋(ふるや)の地、現在の宮崎県東諸県(ひがしもろかた)郡綾町入野(あやちょういりの)古屋に生まれ、日向伊東氏に仕え、鍛刀は父国昌に学びました。しかし天正五年(一五七七)、島津の侵攻によって主家が敗北すると、それに従って豊後に逃げ延びましたが、天正十年(一五八二)頃には古屋に戻ったとされます。その後は古屋を拠点とし、山伏として各地を流浪、美濃国岐阜、相模国小田原、上野国足利などでも鍛刀しました。天正十八年(一五九〇)に『信濃守』を受領、慶長四年(一五九九)頃からは京都一条堀川に定住、郷里から同族を呼び寄せるなどして一門を形成、門下からは、末弟とされる国安を始め、出羽大掾国路、大隅掾正弘、越後守国儔、平安城弘幸、山城守国清、和泉守国貞、河内守国助等々、名だたる名工を輩出、堀川一門は、新刀期最大派閥となりました。その中で棟梁たる国廣は、『堀川物』と呼ばれる一つのジャンルを確立、新刀ながら重要文化財『山姥切国廣』を始め、重要文化財十口、重要美術品九口を数える名匠です。
京堀川に定住する以前の作は、『日州古屋打ち』、『天正打ち』と呼ばれ、末相州や末関を狙った乱れ刃が多く、定住後の『堀川打ち』、『慶長打ち』では、相州上工を狙った穏やかな刃調の作が多く見られます。彫り物も前期後期問わず、巧みな作がまま見られますが、短刀、脇差しに多く、不動明王、毘沙門天などの神仏像を始め、龍、大黒天、布袋、梵字、倶利伽羅の欄間透かしなども見られます。
年紀作に見る活躍期は、天正四年(一五七六)から慶長十八年(一六一三)までの約四十年間、慶長十九年四月、八十四歳で没したと云います。
銘振りは、前期は『日州古屋住国廣作』、『九州日向住国廣作』などが多く、諸国流浪時は、銘文に『山伏之時作之』などと添え、後期は『国廣』、『藤原国廣』、『信濃守国廣』等々、他にも多数あります。
本作は平成二十九年(二〇一七)、第六十三回の重要刀剣指定品、『国廣大鑑』所載で、年紀はありませんが、『国廣大鑑』にも『慶長十五年以後』とあるように、 いわゆる『堀川(慶長)打ち』、同工晩年円熟期の傑作です。
寸法一尺一分弱、段平(身幅広い)でガッシリとして、反り浅めの姿は、典型的な慶長新刀スタイルです。
板目、杢目、棟寄りに流れ肌を交えてザングリと肌立つ地鉄は、細かな地景を交え、区下より水影立ち、湾れ、小互の目、尖り心の刃、やや角張った互の目を交えた焼き刃は、刃縁荒沸付いて匂い深くやや沈み勝ちとなり、刃中金筋掛かるなど、堀川物の典型と言える地刃の出来で、随所に同工の手癖が良く示された優品です。
茎裏に『法橋兼與(与)(ほっきょうけんよ)』とあるのは、所持者である猪苗代(いなわしろ)兼與のことで、図譜等にも、『兼與は、兼如の子で、安土桃山期~江戸初期に活躍した連歌師で看松斎と号し、古今伝授(古今和歌集の難解な語句等の解釈)を公家の近衛信尹(のぶただ)に受け法橋に叙せられる。また二代将軍徳川秀忠より宅を江戸に賜るものの、伊達政宗に仕えて連歌の師として京に住み、寛永九年に没した。』とあります。
法橋とは僧位の一つ、法印、法眼(ほうげん)に次ぐ位で、武家時代には、医師、絵師、連歌師などにも与えられた称号、連歌とは、和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を多数の人たちが交互に作り、一つの歌になるように競い合って楽しむ文芸の一つです。
表裏の彫りに付いては、前述したように国廣の彫り物は様々あり、武神、金運、開運の神としても崇められる大黒天は、同工が得意とした意匠で、特に前期作『古屋打ち』に見られるものですが、これまでは向かって右斜めに向いているものしか見たことがありません。本作のように真正面を向いているのは初見、本誌初掲載、杖は極稀にありますが、払子も初見です。裏の彫り口をやや草書風に崩している点も見所です。
払子とは、羊の毛、麻などを束ね、それに柄をつけた道具。僧侶が身だしなみを調える法具として使われます。
彫り物の意匠が普段と違う点からも、特注による入念作であったことが窺えます。
脇差しに傑作の多い国廣ですが、本作は地刃の出来、彫り物など全てに於いて、同工の本領が遺憾なく発揮された傑出の一振り、自信を持って強くお薦めする名品です。




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