刀 (太刀銘)正秀
(まさひで)
文化十一甲戌孟春日(刻印)(一八一四)
Katana:Masahide
新々刀・武蔵 江戸後期 最上作 拵え付き
特別保存刀剣鑑定書及び特別貴重刀剣認定書並びに
藤代松雄鑑定書並びに柴田光男(喘喜堂)鑑定書付き
寒山先生鞘書き有り

刃長:70.6(二尺三寸三分) 反り:1.7 元幅:3.16
先幅:1.99 元重ね:0.70 先重ね:0.41 穴1
鎬造り、鎬高め庵棟低め、中切っ先。 表裏共に棒樋に添え樋をハバキ下で掻き流し、表は樋内に素剣を浮き彫りにし、裏は素剣を添える。 鍛え、小板目やや沈み勝ちに詰み、所々肌立ち、地色やや黒みを帯び、ほのかに映り心があり、地景入り、地沸良く付き、地鉄良好。 刃文、直湾れ調の刃取りで小互の目、小丁子乱れを交えて所々やや逆掛かり、刃縁小沸良く付いてやや沈み勝ちとなり、刃中小足、葉入る。 帽子、小乱れて先小丸風に返る。 茎生ぶ、先刃上がり栗尻、鑢化粧大筋違い。 銀ハバキ(丸に木瓜花菱紋の陰刻有り)。 時代研磨。 白鞘入り。
打ち刀拵え(幕末期 全長106 柄長26 鞘 艶茶梨地 こじり、栗型、鯉口黒塗 下げ緒、黄土色 柄 親鮫に卯の花柄巻 縁頭、美濃風鋤下げ彫、秋草虫図 目貫、赤銅容彫色絵、秋草図 鍔 鉄地丸形、真鍮平象嵌 秋草図)付き。
【コメント】
正秀は、川部儀八郎と言い、寛延三年生まれ、出羽国山形の出身で、始め『宅英』と銘じました。後に『英国』、安永三年には、山形藩主秋元家に抱えられて、『正秀』と改銘し、『水心子』と号しました。文政元年、二代白熊入道に名跡を譲り、『天秀』と改銘、文政八年、七十六歳で没。
同工は、大慶直胤、細川正義等々、二百近くに及ぶ門弟を輩出、また理論と実技の両面に卓越し、他の刀匠の鍛刀技術革新にも大いに貢献したことから、『新々刀の祖』と呼ばれ、大慶直胤、源清麿と共に『江戸三作』とも呼ばれる新々刀最高峰鍛冶です。
作は安永初め頃から文政頃まで、作風は、初期は、越前守助廣、井上真改風を狙った焼きの深い、華やかな作が多く、文化以降は、自らが『刀はすべからく鎌倉期へ回帰せよ。』と提唱した、いわゆる『復古造法論』の実践から、鑑賞的な華やかさではなく、実用を本位とした穏やかな直調の作風へと移行して行きました。
また文化初年頃から茎に見られるようになる特有の刻印は、『日天』の文字を独鈷剣の如く図案化したもので、贋作予防として同工が創始したものです。
本作は文化十一年(一八一四)、同工六十五歳の頃に当たる円熟期の作、『正秀』二字草書銘の貴重な現存作です。
寸法二尺三寸三分、反りやや深め、元重ねがガシッと厚く、先がしなやかな姿は、鎌倉末葉の太刀姿を狙ったスタイルです。
自らの『復古造法論』を実践した典型的な一振りで、その中でも、この頃に良く見られる『長船景光写し』です。
刃を低く抑え、刃中に足を多数入れることで、斬れ味、耐久性を強化、実用を重視した出来になっています。やや沈んだ刃縁の雰囲気は良く斬れそうです。
また二字草書銘は希少、『日天』の刻印も、通常表の茎尻ですが、本作は裏の茎尻にあり、そもそも太刀銘も見ません。
古い登録証は、昭和二十六年の大阪『五〇五』号、水心子正秀晩年円熟期の典型作です。





