刀 飛騨守藤原氏房
(ひだのかみふじわらのうじふさ)
Katana:Hidanokami Fujiwarano Ujifusa
新刀・尾張 江戸初期
業物 太刀拵え付き
特別保存刀剣鑑定書付き

刃長:68.3(二尺二寸五分強) 反り:1.2 元幅:3.03
先幅:2.29 元重ね:0.69 先重ね:0.51 穴1

太刀拵え(幕末期 全長103センチ 鞘 黒に金箔張り研ぎ出し鞘 足間、革包み、太刀緒革花模様 経年の擦れにより色落ち、くすみ有り 柄 鮫に茶革柄巻き 目貫、赤銅容彫金色絵蛇の目輪紋図 金具類、石突き、責め金、一、二の足、口金、兜金、縁等全て同作、鉄地唐草金象嵌 鍔 鉄槌目地木瓜形無模様、赤銅阿弥陀鑢地の同型大切羽が張られている)付き。

【コメント】
飛騨守氏房は、永禄十年、若狭守氏房の嫡子として美濃関に生まれました。十一歳で織田信孝(信長の三男)の小姓として仕えましたが、信孝自害後は浪人となります。数年後、岐阜で鍛刀していた父若狭守と共に清洲へ移り、父の元で本格的に鍛刀を学びました。天正十八年に父が没した後は、初代信高に師事したと伝えています。天正十九年、関白となった豊臣秀次が清洲領主となると、氏房、政常、信高の三名は、京の聚楽第(じゅらくてい)での謁見を許され、この際に各自作刀を献上、翌年五月、再度上洛して氏房は飛騨守、政常は相模守、信高は伯耆守を賜りました。その後、慶長十五年に名古屋城が完成すると、名古屋城下へ移住、寛永八年、子の備前守氏房に家督を譲り、同年十月、六十五歳で没。
作風は、身幅広く、反り浅め、鎬高めでガシッとして、切っ先は中切っ先延び心のもの、大切っ先のものが大半で、典型的な慶長新刀姿を示します。
地鉄は小板目が良く詰んで地沸が厚く付くもの、板目に杢目が交じって肌が流れ心になるものがあり、刃文は、大互の目乱れで尖り刃交じるもの、湾れに互の目、丁子の交じるもの、直刃調に小湾れ交じるものがあります。
活躍期は天正末年から慶長末年頃までとされていますが、年紀作はほとんど見られません。
本作は寸法二尺二寸五分強、切っ先グッと延び心で、反りやや浅めに付いた雄壮な造り込みで、地刃健全、慶長末年から寛永初年頃の作と鑑せられる同工晩年作です。
板目が総体的に良く詰んだ地鉄は、細かな柾肌、流れ肌を交え、地景をふんだんに配した精良な鍛えで、直調に湾れ、互の目を交えた焼き刃は、刃縁の沸匂い一際深く、やや沈み勝ちに締まり、喰い違い刃、沸崩れを交えています。
刃中に細かな鍛えが少しありますが、この刃縁は如何にも物斬れしそうな雰囲気、地刃綺麗な慶長新刀、幕末期の太刀拵え付き、これは良い飛騨守です。





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