刀 (太刀銘)肥前国住陸奥守忠吉
(ひぜんのくにじゅうむつのかみただよし)
Katana:Hizennokuniju Mutsunokami Tadayoshi
新刀・肥前 江戸前期 最上大業物
特別保存刀剣鑑定書付き
水戸徳川家伝来品
神津伯先生鞘書き有り
『神津伯押形』所載品

刃長:69.7(二尺三寸強) 反り:1.8 元幅:3.31
先幅:2.37 元重ね:0.70 先重ね:0.60 穴2


【コメント】
陸奥守忠吉は、橋本新三郎と称し、近江大掾忠廣の嫡男として、寛永十四年に生まれました。初代忠吉の後、忠吉を名乗っていた土佐守忠吉が没すると、忠吉銘が本家に返上されたため、父忠廣に代わって三代忠吉を襲名、万治三年十月に『陸奥大掾』、寛文元年八月に『陸奥守』を受領しましたが、父に先立つこと七年、貞享三年に五十歳で没しています。
初代同様、最上大業物にその名を連ねる三代の自身作が少ないのは、比較的短命であったこと、長寿であった父の協力者として、数多く鍛刀したことなどに起因していると考えられます。
作風は、肥前直刃が圧倒的に多く、乱れ刃は、互の目乱れ、足長丁子、逆丁子などが僅かに見られます。
鑢目は勝手上がり、茎尻は寛文五年頃までは入山形、以降は栗尻になります。
銘振りは、初期は刀が『陸奥大掾藤原忠吉』、脇差しが『陸奥大掾忠吉』と切り、『陸奥守』受領後、寛文二年八月までの僅かな期間に限って、刀、脇差し共に『陸奥守藤原忠吉』と切っています。
それ以降は、刀はほぼ『肥前国住陸奥守忠吉』、脇差しは『肥前国陸奥守忠吉』ですが、脇差しには『陸奥守忠吉』、『忠吉』、『肥前国忠吉』が極僅かに見られます。
年紀作はほとんど見られませんが、上記の銘振り、茎仕立てなどによって 大凡の区別が可能です。
本作には年紀がありませんが、前述した銘振りなどからして、寛文末年から延宝初年頃、同工四十代後半頃の作と鑑せられます。
寸法二尺三寸強、下が生ぶ穴で二寸程磨り上がっていますが、切っ先強く張り、 元先身幅、重ねガッシリとして地刃すこぶる健全、刀がズシッと重いです。
小糠状の美しい肥前地鉄、互の目丁子乱れに小互の目、箱掛かった刃、大互の目、小乱れを交えた華やかな刃文は、刃縁荒沸付いて匂い深く、刃中互の目足入り、所々金筋、砂流し掛かる出来で、同工乱れ刃の典型とも言える一振りです。
また本作は水戸徳川家伝来品と伝わっており、同家刀剣目録を見ると、『肥前国陸奥守忠吉』と銘のみ記載がありますが、寸法等その他の詳細は記載されていません。しかしながら、登録証を見ると、昭和二十六年三月の茨城県登録、第『三七』号となっていますので、ほぼこの刀で間違いないでしょう。
加えて『神津伯押形』所載品で、鞘書きも昭和二十一年、神津伯(こうづはく)先生自筆のものです。神津伯は、大正、昭和を代表する日本刀研究の大家、一般的には日刀保の創始者である佐藤寒山及び本間薫山の師、『神津伯押形』などで良く知られています。昭和二十六年、七十九歳で没。書などを記す場合、本鞘のように雅号の『葆光(ほうこう)(花押)』を使用することがまま見られます。
最上大業物、陸奥守忠吉の典型乱れ刃、且つ由緒正しき伝来品、生ぶ茎なら大変なことです。凄まじい斬れ味を誇る最強の三代陸奥です。







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