刀 越前守源助廣
(えちぜんのかみみなもとのすけひろ)
以地鉄研作之
Katana:Echizennokami Minamotono Sukehiro
新刀・摂津 江戸前期 最上作 大業物 拵え付き
特別保存刀剣鑑定書付き

刃長:71.4(二尺三寸六分弱) 反り:1.3 元幅:3.10
先幅:1.95 元重ね:0.77 先重ね:0.54 穴1

上打ち刀拵え(全長100 柄長23.5 江戸後期 鞘 黒に螺鈿散鞘 こじり、返り角、栗型、瓦金は全て赤銅魚子地据え紋金色絵五三桐散 小柄、緋色銅魚子地、据紋象嵌色絵、樋定規に桐紋図 笄、赤銅魚子地据紋象嵌色絵、樋定規に桐紋図 柄 親鮫に金茶柄巻 縁頭、赤銅魚子地、据紋象嵌金色絵、桐紋散図 目貫、金無垢地容彫、三疋獅子図 鍔 赤銅魚子地丸形、据紋象嵌金色絵、桐紋散図 素銅に金着せ切羽)付き。

【コメント】
二代助廣は、寛永十四年(一六三七)、摂津国打出村(現在の芦屋市)に生まれ、大坂に出て初代助廣の門人となり、後に養子となって二代助廣を襲名、寛文七年(一六六七)、大坂城代青山因幡守宗俊の抱え鍛冶となりました。井上真改と双璧を成す、大坂新刀鍛冶の最高峰で、同工が創始した濤瀾刃は、それ以降現代に至るまで、数多の刀匠に多大なる影響を与えており、華やかな乱れ刃の代名詞となっています。
作刀期間は、承応二年(一六五三)から天和二年(一六八二)までの三十年余りですが、明暦三年(一六五七)の終わり、二十一歳の頃までは、初代の代作代銘を行っています。同年『越前守』を受領、万治元年八月(一六五八)から二代助廣として独立、これ以降が自身銘の作になります。
銘の変遷としては、最初は基本『越前守助廣』銘ですが、万治元、二年に限って『越前守源助廣』銘も見られます。 寛文七年二月からは、津田を冠した『津田越前守助廣』銘、いわゆる『角津田』銘となり、筋違いのみであった鑢目に、同工特有の香包化粧鑢が加わり、寛文七年八月からは、裏年紀のみ草書風となります。『角津田』銘は、延宝二年(一六七四)二月までの七年間、それ以降天和二年正月までの八年間は、表裏草書風の『丸津田』銘となります。同年三月、四十六歳で急逝。
作風は、初代の代作期に於いては、丁子に互の目交じり、小丁子乱れ、焼きの高い足長丁子など、全て初代風を継承していましたが、寛文三年に初代が没してからは、濤瀾風の刃が交じる互の目乱れへ移行、焼きの谷に玉を焼くようになります。同工の代名詞でもある濤瀾刃が完成するのは、角津田銘の終わり頃、寛文末年頃になります。
本作は『越前守源助廣』銘の優品、年紀がありませんが、鑑定書に『年代万治頃』とあり、更にその字体から万治二年の終わり、同工二十三歳の頃の作であることが分かります。前述したように独立して間もない頃、二代助廣として歩み出した頃に当たります。
寸法二尺三寸六分弱、切っ先詰まり気味で反りやや浅めに付いた典型的な寛文新刀スタイル、地刃健全で均整の取れた美しい姿を示しています。
大互の目乱れを主体に、小互の目、互の目丁子を交えた刃文は、刃縁荒沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中互の目足入り、金筋、砂流し掛かる出来で、特に上半は焼きが高く、鎬に掛かる程華やかです。
茎裏の『以地鉄研作之』は、『自家製鉄を以て之を作る』の意と考えられますが、『助廣大鑑』等によると、『この頃越前康継等が南蛮鉄を使用し、その旨を茎に刻していたことに対し、助廣が自身は和鉄を使用していたことを広く訴えようとしたものではないか。』との解釈が成されています。
いずれにしろ、助廣が若くして地鉄の研究に取り組んでいたことが分かる好資料かと思います。
外装は江戸後期作、黒に螺鈿散らし鞘、金具類は全て赤銅魚子地、小柄笄もピシッと入っており、目貫は金無垢等々、大変立派でお洒落な逸品、外装のみでも相当な額になります。
新刀最上作大業物、大坂新刀鍛冶の最高峰、二代助廣の最初期の代表作と成り得る自信作、内外存分にお楽しみ頂けます。






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