脇差し 山浦真雄
(やまうらさねお・まさお)
安政丁巳八月日(安政四年)(一八五七)
Wakizashi:Yamaura Saneo・Masao
新々刀・信濃 江戸末期
特別保存刀剣鑑定書付き
柴田光男著『新々刀入門』及び
日刀保長野県支部編集『山浦一門集』所載品

刃長:45.2(一尺四寸九分強) 反り:1.4 元幅:3.07
先幅:22.42 元重ね:0.69 先重ね:0.52 穴1


【コメント】
山浦真雄は、文化元年(一八〇四)、現在の長野県小諸市生まれ、本名は昇、幼名を駒次郎、完利(ひろとし)とも称しています。その九年後の文化十年(一八一三)に生まれたのが、弟正行(清麿)です。十二歳の頃から、信濃国小諸藩士、諏訪清兼に剣術を学び、己に見合う最強の一振りを求めて二百余振り試したものの見付からず、自らそれを鍛えるために、刀匠の道を志したと云います。文政十一年(一八二八)、弟正行と共に、信濃国上田藩工の河村寿隆に入門、嘉永六年から松代藩真田家の藩工になりました。
年紀作に見る活躍期は、文政十三年(一八三〇)から明治七年(一八七四)まで、同年、七十一歳にて没。 作風は、最初期は因州浜部一門であった師に倣い、刃縁の締まった重花丁子風の刃文を焼きましたが、それ以後は、清麿同様に相州伝の烈しい互の目乱れが主体となります。
銘振りは、最初『天然子完利』、天保二年から弘化末年頃までは『寿昌』、『天然子寿昌』、『信濃国寿昌』、嘉永元年から『源正雄』、『山浦昇源正雄』、嘉永四年から、『山浦真雄』、『信州住真雄』、『信濃国真雄』、文久三年頃から、『遊射軒真雄』、『遊雲斎真雄』などと、号を添えた銘も見られるようになり、晩年明治元年九月からは、『寿長』と銘じています。
本作は山浦真雄銘の脇差し、安政四年作、同工五十四歳の頃に当たります。
寸法一尺四寸九分強、大切っ先やや鋭角となった勇壮な造り込みは、清麿一門得意のスタイルです。
沸出来の互の目乱れ主体の刃文は、刃中互の目足、葉入り、金筋、砂流し掛かり、帽子も乱れ込んで沸付き、先尖り風に掃き掛け返るなど、清麿一門の真骨頂とも言える作域が良く示されています。
刃中に鍛えが少しありますが、柴田光男著『新々刀入門』及び日刀保長野県支部編集『山浦一門集』所載品で、登録証も地元長野県登録、年紀もピシッと入っていますので、山浦一門コレクションには欠かせない一振りです。





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