脇差し 肥前国住人忠吉作 刳物藤原宗長
(ひぜんのくにじゅうにんただよしつくる
くりものふじわらのむねなが)
Wakizashi:Hizennokunijunin Tadayoshi Kurimono Fujiwara Munenaga
新刀・肥前 江戸初期
最上作 最上大業物
特別保存刀剣鑑定書並びに特別貴重
『肥前刀大鑑』並びに『日本刀の彫物』所載品
探山先生鞘書き有り
長野県佐久市文化財指定品
刃長:39.4(一尺三寸強) 反り:0.7 元幅:2.92
先幅:2.63 元重ね:0.58 先重ね:0.49 穴1
【コメント】
最上作にして最上大業物、初代忠吉『住人銘』の脇差し優品、見事な真の倶利伽羅は、宗長彫りの真骨頂、『肥前刀大鑑』並びに『日本刀の彫物』所載品、長野県佐久市文化財に指定された名品です。
初代忠吉は橋本新左衛門と称し、元亀三年の生まれ、忠吉一門の旗頭として、慶長元年、二十五歳の時に、佐賀城主鍋島勝茂にその鍛刀技術を認められ、藩工に任じられると、京の埋忠明寿弟子入りを命じられました。帰国後に佐賀城下へ移り、慶長五年頃より本格的な作刀が始まります。銘振りは、慶長十九年頃までを『五字忠吉銘』、以降元和末年頃までを『肥前国住人忠吉作』と切る、いわゆる『住人忠吉銘』、それ以降は『武蔵大掾藤原忠廣』と切り、源姓から藤原姓へ改めています。寛永九年八月、六十一歳没。山城来風の直刃と肥前小糠肌の美しさは、新刀期で右に出る者なしと評された名人、人気実力共に一門の最高峰鍛冶であることは周知の事実です。
本作は寸法一尺三寸強、豪壮な姿ではありませんが、大切っ先で元先身幅のほとんど変わらない慶長新刀スタイルの脇差し、年紀はありませんが、探山先生鞘書きにもあるように、慶長二十年頃、住人銘の最初期、同工四十四歳の頃の作に当たります。細美な地沸を厚く敷き詰めた小板目が、緩みなく整った極上の小糠肌は、繊細な地景を織り成した見事な鍛え、直湾れ調の焼き刃は、刃縁にほつれ心があり、沸匂いが帯状に厚く付いて、刃中黒艶のある上品な金筋、砂流しが掛かり、匂い口は目映い光りを放っています。地にも刃縁に沿って、二重刃風の沸筋が立つなど、新刀とは思い難い古調な地刃の出来を示しています。
表の旗鉾、裏の真の倶利伽羅は、名人宗長の手による大変貴重な彫り物、肥前刀には、稀に濃厚な彫り物が見られますが、これらの大半は宗長、吉長、忠長ら、専属の彫り師によるものであり、中でも宗長の技術が最も優れているため、世上『宗長彫り』と称され珍重されます。宗長の添え銘には、『刳物藤原宗長』、『切物宗長』などが見られますが、『刳物(くりもの)』とは、『鏨などで刳り抜いた物』の意です。宗長は埋忠明寿の弟子で、一説によるとその入門時期は、初代忠吉と同時期、忠吉は鍛刀、宗長は彫技を学んだと云います。彫りの意匠は昇り龍、下り龍、火炎不動、旗鉾、草の倶利伽羅、梵字などがありますが、最も得意としたのが真の倶利伽羅、宗長の場合、三鈷剣ではなく、素剣に龍が巻き付いており、下に爪が張り出しているのが特徴で、刀身腰元にグッと詰まった寸法、龍の体の立体感、弾力感、四肢の力強い動きなど、全てに於いて鏨が濃密で迫力があります。本作の彫り物も見事であり、特に真の倶利伽羅は、前述の如くの立体感、躍動感で、正に真骨頂と言える出来映えを示しています。
初代忠吉には、『五字忠吉』、『住人忠吉』時代に宗長、最晩年の『武蔵大掾忠廣』時代に吉長の彫りが見られますが、宗長彫りは、添え銘のないものを含めても、慶長十五、六年から元和七、八年頃までしか見られず、この間僅か十年余りです。更に添え銘のあるもののほとんどが、『住人忠吉』時代であることも、大変興味深い点です。初代忠吉の作に彫り物がある場合、本作のように宗長彫りによる真の倶利伽羅で、添え銘あるものを最も貴重とします。
本作は『肥前刀大鑑』並びに『日本刀の彫物』に宗長彫りの典型作として所載、また昭和四十六年、長野県佐久市文化財にも指定された名品、100%の保証は出来ませんが、是非とも上を狙って頂きたい逸品です。
千載一遇の好機とは正にこのこと、これは絶対に押さえるべき忠吉です。