刀 備前国住長船祐定(与三左衛門尉)
(びぜんのくにじゅうおさふねすけさだ)
永正十二二年二月日(一五一七)
Katana:Bizennokuniju Osafune Sukesada
古刀・備前 室町後期
最上作 大業物 拵え付き
第十七回重要刀剣指定品(昭和四十三年)(一九六八)
薫山先生及び探山先生鞘書き有り
『草薙廼舎(くさなぎのや)押形(佐藤寒山編集)』所載品
刃長:64.7(二尺一寸四分弱) 反り:2.4 元幅:3.17
先幅:2.17 元重ね:0.78 先重ね:0.56 穴3(内1忍)
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打ち刀拵え(全長93.5 柄長20.5 江戸後期 鞘 黒の呂鞘 下げ緒鉄紺 柄 親鮫に焦げ茶柄巻き 縁頭、赤銅魚子地高彫色絵、犬使い図 目貫、赤銅容彫うっとり金色絵 花の図 鍔赤銅魚子木瓜形、地透金色絵、唐草に牡丹図)付き。
【コメント】
長船与三左衛門尉祐定の重要刀剣、末備前鍛冶の最高峰、華やかな典型的乱れ刃の傑作、地刃すこぶる健全で、彫り物も見事です。
室町幕府将軍家とその補佐役管領家の後継者争いが、京の都を焼け野原にした『応仁の乱(一四六七~一四七八)』、その戦乱の火種は全国的に広まりました。備前の地も例外ではなく、赤松、宇喜多、浦上、松田、三村の諸氏が覇権を争い、対立抗争を繰り返し、刀剣需要は激増しました。その大量需要に応えたのが長船一派を中心とした備前鍛冶であり、皆大いに繁栄、『備前刀剣王国』とまで呼ばれる一大生産地となったのです。
数多輩出された末備前鍛冶の中では、祐定を名乗る刀工が特に多く、古刀期だけで八十余名を数えます。その中でも名実共に筆頭に挙げられるのが、与三左衛門尉祐定です。
同工は、彦兵衛尉祐定の子で、応仁元年(一四六七)生まれ、年紀作に見る活躍期は、文亀(一五〇一~〇四)から天文十年(一五四一)頃まで、翌十一年、七十六歳で没と伝わります。
作風は、代表的な複式互の目乱れを始めとして、直刃、湾れを基調としたもの、皆焼、互の目の先が割れて蟹の爪状になったいわゆる『蟹の爪刃』もあります。
作風、時代を問わず、比較的ムラなく出来優れるのが与三左衛門尉であり、それが『末備前鍛冶の最高峰』と呼ばれる所以です。
本作は、俗名入りではありませんが、鞘書きにもあるように、薫山先生及び探山先生の両名が、『与三左衛門尉に紛れなし。』と明記しています。銘振り、その書体からしても一目瞭然、また地刃の出来、彫り物などを見ても、格の違いを感じます。
昭和四十三年(一九六八)、第十七回の重要刀剣指定品、永正十四年は、同工五十一歳の頃、同工壮年最良期の傑作です。
寸法二尺一寸四分弱、鎬高く、やや寸が詰まって先反り深く付き、茎の短い姿は、室町中後期の典型的な片手打ちスタイルを示しています。
加えて身幅、重ねがガシッとして、手持ちもズシッとくるなど、何とも言えない重量感があります。
小板目に板目、杢目を交えて良く詰んだ精良な備前地鉄、互の目丁子乱れ主体に、小丁子、小互の目を交えた刃文は、鎬に掛かりそうな程焼き高く華やかで、刃縁匂い勝ちに小沸付いて良く冴え、刃中小足、葉頻りに入り、所々繊細な金筋、砂流しが掛かっています。帽子も乱れ込んで焼き深く、先掃き掛けて尖り心となるなど、覇気溢れる大変魅力的な出来映えを示しています。
また表裏共に棒樋に添え樋を丸留めにし、その下に、表は四橛(しけつ)と蓮台、裏は梵字の彫りがあります。
四橛とは、密教仏具の一つ、仏前に設けた修法(しゅほう)壇の四隅に立てる柱、杭のことで、その内側が結界であることを示すものです。
修法とは、病気や災難から身を守るために神仏に祈ること。いわゆる加持祈祷です。
探山先生鞘書きにも、『四橛を始め、巧技の彫りは、同工の俗名を冠しない銘文の作に多く見られる傾向がある。』とあります。
加えて『正に同工の典型的且つ出色の出来映えを示す健やかな優品也。』ともあるように、近年稀に見る与三左衛門尉祐定の登場です。
佐藤寒山先生著、『草薙廼舎(くさなぎのや)押形』にも同工代表作として所載されています。
昭和二十六年の古い登録証は、兵庫県登録、江戸期の上質な外装付きです。
『末備前一』と評されるその技量を存分に発揮した、与三左衛門尉祐定傑出の一振り、これが末備前の最高峰です。