刀 和泉守兼定作(之定)
(いずみのかみかねさださく)
(附)黒蠟色鞘打刀拵 (附)古鞘
Katana:Izuminokami Kanesada
古刀・美濃 室町末期 最上作 最上大業物
第十八回重要刀剣指定品
島津家伝来品
『続徳川実紀(第四篇)』及び『公爵島津家蔵品入札目録』所載品

刃長:77.1(二尺五寸四分強) 反り:2.6 元幅:3.25
先幅:2.05 元重ね:0.71 先重ね:0.41 穴2(内1忍)
上打ち刀拵え(江戸後期 全長101 柄長21 鞘 黒の呂鞘、返り角あり 小柄、赤銅魚子地高彫金色絵、裏哺金、川に紅葉の図 笄、同作川に桜の図 下げ緒、深紫 鍔 赤銅研磨地丸形無文)付き。
【コメント】
最上作にして最上大業物、之定の重要刀剣、同工傑出の一振り、最後の薩摩藩主島津忠義が、第十四代将軍徳川家茂より下賜された由緒正しき伝来品で、『続徳川実紀(第四篇)』及び『公爵島津家蔵品入札目録』所載品です。
和泉守兼定は、孫六兼元と並ぶ美濃鍛冶筆頭で、共に最上作にして最上大業物、『定』の字のウ冠の中を『之』と切ることから『ノサダ』の呼称があり、年紀作に見る作刀期間は、明応二年(一四九三)から大永六年(一五二六)までの三十三年間、天文(一五三二~五五)初年頃に没したと云います。
銘振りは、最初『濃州関住兼定作(造)』と切り、明応十年(一五〇一)頃までは、『定』の字を楷書で切ります。それ以降『之定』銘となり、永正七年(一五一〇)頃に『和泉守』を受領、以降『和泉守(藤原)兼定作』と切ります。短刀の場合、『兼定』二字銘が圧倒的に多く見られます。鑢目は刀、脇差しは鷹の羽、短刀は檜垣、茎尻は栗尻ですが、後期晩年作になると、どの寸法でも鑢目は筋違い、茎尻は尖って入山形、剣形風になります。
作風は、頭の丸い互の目、互の目丁子刃が主体で、湾れ、矢筈刃、箱刃、尖り刃が交じり、刃縁の柔らかく締まった作が多く、短刀には、来写しの直刃が多く見られます。
彫り物は簡素な棒樋や護摩箸程度で、濃厚な意匠の彫りは皆無、長大な作は僅少であり、やや寸の詰まった作が大半を占めています。
本作は、昭和四十四年(一九六九)、第十八回重要刀剣で、付属の黒蠟色鞘打刀拵及び古鞘と共に指定された島津家伝来品です。
図譜には、『安政六年正月十五日、島津二十九代当主で、薩摩藩最後の十二代藩主、島津忠義(前銘茂久)(もちひさ)が、襲封(しゅうほう)(大名などが代々の領地を受け継ぐ事)の際に、徳川十四代将軍家茂より、茂久の名を授かった。本刀は、その際に下賜されたものである。』とあります。因みに、島津忠義は、明仁上皇(平成天皇)の曾祖父、現在の徳仁天皇の高祖父に当たります。
前述の打刀拵及び古鞘は、当時の付属品で、古鞘には刀の由緒が記されています。また、このことは、付属資料、『続徳川実紀(第四篇)』にも記載されています。
寸法二尺五寸四分強、先反り深く踏ん張りのある、美しい太刀スタイルを示しており、地刃すこぶる健全です。
『和泉守』を冠した銘振り、鑢目等からして、永正の終わりから大永の初め頃の作と鑑せられます。同工に於いては、壮年の最良期に当たります。
小板目に板目、杢目を交えた精良な地鉄は、所々流れて上品に肌立ち、湾れに互の目、小互の目、丁子風の刃を交えた刃文は、刃縁良く沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中葉、足繁く入るなど、正に之定の典型を示しており、地刃の出来も素晴らしいものがあります。
また本作は、下賜されてから約七十年後の昭和三年五月に売りに出されており、そのことは付属資料、『公爵島津家蔵品入札目録』に記載されています。
『公爵島津家蔵品入札目録』とは、島津家が家宝を売りに出した際の目録であり、一般的には『島津家売立目録』などと呼ばれます。
昭和の初め、金融恐慌の煽りを受けて財政難に陥った島津家は、先祖代々伝わる家宝を昭和三、四年の二回に渡って、東京美術倶楽部にて売りに出しました。本作は、その目録の『二八六』番として、写真と共に掲載されており、古鞘にも『二八六』の札が貼られています。
之定の傑作重要刀剣のみならず、徳川家将軍より下賜された島津家伝来品、付属の古鞘、外装と共に今後も受け継がれて行くべき日本の宝、これは大変な一振りが出て来てしまいました。









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