刀 無銘(伝相州貞宗)
(でんそうしゅうさだむね)
Katana:Mumei(Den Soshu Sadamune)
古刀・相模 最上作 鎌倉末期~南北朝前期
第十二回重要刀剣指定品(昭和三十九年)(一九六四)
探山先生鞘書き有り
本阿弥光忠折紙付き(宝永七年)(一七一〇)
大和国郡山藩主柳沢家伝来品

刃長:68.0(二尺二寸四分強) 反り:1.8 元幅:3.11
先幅:2.24 元重ね:0.60 先重ね:0.40 穴2
【コメント】
相州貞宗の重要刀剣、相州伝最上工の沸の強さ、煌めきを存分に示した堂々たる一振り、最高権威、本阿弥光忠折紙付き、大和国郡山藩主柳沢家伝来品です。
相州貞宗は、彦四郎と称し、岡崎五郎入道正宗門人で、後に養子になったと伝えています。鎌倉末期から南北朝前期の刀工で、『亀甲貞宗』、『伏見貞宗』など国宝一口、『切刃貞宗』、『二筋樋貞宗』、『幅広貞宗』など重要文化財十二口、重要美術品三口を数える名工ながら、在銘正真作は現存しておらず、現存品は、無銘若しくは金象嵌銘、朱銘などによる極めになります。
作風は、光り美しい刃沸、地景を頻りに織り成す地鉄など、師風を最も良く受け継いでいます。師との相違点は、師に比してやや大柄な姿形、刃調が湾れ主体で穏やかである点になります。
本作は、昭和三十九年(一九六四)、第十二回重要刀剣指定品で、『伝貞宗』と極められています。
寸法二尺二寸四分強、身幅しっかりとした勇壮な造り込み、姿も美しく、 地刃健全、茎裏には朱書きの痕跡らしきものがありますが、判読不明です。
板目に杢目、流れて肌を交えた地鉄は、地景繁く入り、良く錬られて潤いがあり、湾れ調で小互の目交じりの刃は、刃縁良く沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中小足、小互の目足入り、金筋、砂流し頻りに掛かるなど、一見して分かる鉄質の良さ、鍛錬の良さ、刃中に光の強い荒沸が付いて太い金筋がうねるように掛かる様は、師正宗風を良く継承しています。
前述したように、刃調が穏やかである点、姿が大柄な点を踏まえると、貞宗の極めは至極妥当です。 また本刀には、宝永七年(一七一〇)、十三代本阿弥光忠による『貞宗』極めの折紙が附帯しており、『代金子百枚』の代付けがされています。
本阿弥光忠は、本阿弥本家十三代当主で、折紙は元禄九年(一六九六)~享保十年(一七二五)まで残されており、同年九月没。
本阿弥本家の折紙でも、特に十三代光忠までのものは、鑑定が厳格で信用が置けるため、『古折紙』又は『上折紙』と呼ばれ珍重されます。
その光忠が、晩年の享保四年、八代将軍吉宗の命により編纂したのが、かの有名な『享保名物帳』です。
『享保名物帳』とは、それまで本阿弥家で鑑定し、押形を残していた名物刀剣台帳、これをまとめた人物の折紙となれば、無論最高権威です。
後に本阿弥光春(一七一九~七八)こと、本阿弥次郎左衛門永清が再鑑定した折紙も附帯しており、『お刀を改めて拝見したところ、現在では五百枚の価値はあろうかと思われる見事な出来。』とあります。 加えて探山先生鞘書きにもあるように、本刀は大和国郡山(こおりやま)藩主柳沢家に伝来した由緒正しき一振りです。
郡山藩は、大和国に存在した藩で、藩庁は郡山城(現奈良県大和郡山市)に置かれました。享保九年(一七二四)、八代将軍徳川吉宗の『享保の改革』に於ける幕府直轄領拡大に際し、吉宗の命により、甲斐国甲府藩から柳沢吉里が入って以降、幕末まで同家が治めました。吉里の父が吉保、江戸時代前期の幕府側用人(そばようにん)であり、第5代将軍徳川綱吉の側近として絶大な権勢を振るった譜代大名です。
藩の創立が江戸中期で、歴史は浅いにもかかわらず、同家には相当数の名刀が伝来しています。その数は、到底十五万石の大名の蔵刀とは思えません。
これは歴代の将軍に寵愛、重用された柳沢親子ならではのこと。惜しげもなく将軍から名刀を拝領していたために他なりません。
また喘喜堂こと柴田光男先生(一九二三~二〇〇六)の添え状によると、『柳沢家伝来 柳沢美濃守佩用と伝う』とあります。『柳沢美濃守』とは、柳沢吉保のこと、古鞘にも同様の記載があります。
重厚でズシッと重い金無垢二重ハバキには、柳沢家の定紋、柳沢唐花菱紋がビシッと入っています。このハバキだけでも今や大変な価格です。
鞘書きには、『地景頻りに入る精強温潤なる肌合いに、大のどかな湾れ刃を焼き、刃中金筋を織り成すなど、沸出来の妙味を存分に発揮、総体に穏秀の感ある作域を示した味わい深き優品也。』とあるように、相州伝最上工らしい品格と迫力を備えた名品、このレベルの貞宗は中々お目に掛かりません。
出来、健全さに加えて、伝来、光忠の折紙、代付け等々の付加価値まで与えられた素晴らしい貞宗の登場です。








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